5/5(火):「くものうえ⇅せかい演劇祭」から、キリル・セレブレンニコフ監督『The Student』。

これ、無茶苦茶やな感じ(褒め言葉)の映画でした…。聖書の言葉を盾に勝手に最強感を得て、他者を支配しようとする男子高校生が主人公なのだけど、こんな人が身近にいたら超うざい…。

でもこれって、今だとコロナ自警団とか自粛警察みたいなのと同じじゃないかなと。神(後者は政府)という大きな権威に従うことで、自らも小さな権力者となったように錯覚して力をふるう人たち。

自身の正義は他者に向けず、自分にだけ向けていてほしい…。

というか、自身の正義を自身で実行するだけでは物足りない人って、結局はその正義(や教え)そのものが自身にとって大事なのではなく、社会の中での自身の位置付けが大事なのだと思うのですよね。

そういう欲望に都合よく「正義」とか「教え」とか「他者の言葉」が利用されるのだけど、そんな身勝手な欲望には翻弄されたくないなあ。

5/6(水):バービカン・センターのサイト上で5/17まで配信されている、Breach Theatre『It’s True, It’s True, It’s True』

17世紀のイタリアで、画家としての成功を手に入れた女性、アルテミジア・ジェンティレスキ。が、最初に世間の注目を集めることとなった、レイプ裁判の記録を元にした本作。

※裁判の内容についてはナショジオのこの記事を参考にどうぞ。

『It’s True, It’s True, It’s True』では、彼女の作品のうち《スザンナと長老たち》《ホルフェルネスの首を斬るユディト》が出てきます。

《スザンナと長老たち》では、男性画家が描いてきた挑発的でふしだらなスザンナに対して、「アホか!!スザンナは長老たちからセクハラを受けている被害者だろうが!!!」という真っ当な解釈を披露。

《ホルフェルネスの首を斬るユディト》については、歴史的にされてきたステレオタイプな解釈(強姦事件による屈辱と男性への復讐心を糧に描いた)ではあったけれど、あまりにも女性蔑視な裁判で「It’s True, It’s True, It’s True」と何度も訴えなければならなかった彼女が

「それでも、女性が画家として認められることのなかった当時において、その後画業で成功し、再婚相手との間に子どももでき、自分の人生を生きてやったわ!」という展開で終わる本作は、スカッとさせるものではある。

のだけど

画家としてのアルテミジアの価値を本当に伝えるなら、彼女を「強姦事件による屈辱と男性への復讐心を描いた画家」として縛り付けず、彼女の作品について考える必要がある、というこの考察に非常に同意。

もちろんスタート地点にはそういった扱いに対する反骨心があったとしても、芸術や何かを追求する上で、それらのことは最終的には本人の中で昇華されていくのが理想的なのだと思うな。

屈辱や復讐心にいつまでも縛り付けられたままの人生なんて、それこそ辛いですもんね。

5/7(木):リミニ・プロトコル『Chinchilla Arsehole, eyey』@ベルリン演劇祭

画像引用元 https://www.rimini-protokoll.de/website/de/project/chinchilla-arschloch-was-was

画像引用元 https://www.rimini-protokoll.de/website/de/project/chinchilla-arschloch-was-was

写真左から、トゥレット障害のあるミュージシャン兼介護士のベンジャミン、ミュージシャンのバルバラ、トゥレット障害のあるクリスチャン。(後半、トゥレット障害のある政治家も登場)

※トゥレット症候群については、NPO法人日本トゥレット協会のサイトから引用します。

トゥレット症候群とは?

運動チックには、まばたき、顔しかめ、首振り、肩すくめ、腕振り、体のねじり、ジャンプ、人や物に触る、などといった多彩な動きがあります。音声チックは、咳払い、鼻すすり、叫び声、卑猥な言葉や不謹慎な言葉を発してしまったり、自分や他人が言った言葉を繰り返してしまうといった症状です。これらのチック症状は、どれも自分ではコントロールしがたいもので、本人が肉体的・精神的に苦しいばかりでなく、時には周囲の人々にも不快な感情を抱かせ、学校・職場・家庭での生活に支障がでます。この抑えがたい動きや音声が、この病気の特徴です。

トゥレット症候群の人たちによる「精度、再現性、コントロール、世界の歴史、スペクタクル」というものとは真逆を行く舞台は、演劇足りうるのか。演劇はどれぐらい「無意識」に耐えられるのか。

それらを彼らとともに試してみた、という本作。

劇中で歌われる歌詞に「これは”ふり”をするゲームです」とありまして。寛容な”ふり”をすればオッケーみたいな。

上演中、舞台上の彼らに観客が見せた寛容な態度は、「これは演劇作品だから」「ここは劇場で、舞台上の彼らは自分たちに危害を加えないという担保があるから」という前提で成立していたと思うのですが、その「(見せかけだけの)寛容なふり」でオッケーと歌う彼ら。

これ、実社会でも「(見せかけだけの)寛容なふり」でオッケーだと思えば、無駄な緊張がなくなっていいのでは。寛容になろうとすると無理が生じるけど、「ふり」ならね。

以前一度だけ、あるトークで突然暴言を吐く人に居合わせたことがあり、今振り返ると、ああ、彼はトゥレット障害のある人だったのかと思うのですが。

突如なんの脈絡もなくトーク空間に差し込まれる罵声の威力たるや、ものすごくてですね。いかに私たちの社会は「コントロールできること」を前提に進行しているのかと実感したのですが。

でもそれこそ、あのトークの場で、最初に「今日のこの場はそうではない」という前提が共有されて、皆で「このトークの2時間は演劇だ」と思うことができていたとしたら。

自身をコントロールできない人を前にすると恐怖心がどうしても生じるけれど、そこが舞台だと思えば、本作で観客が示したような「寛容なふり」は可能だったかもしれないし、スリリングで即興的なイレギュラートーク空間を皆でつくりあげられたのかもしれません。

話戻り。

本作では、そうやって「寛容なふり」を示した観客が、最後に空になった舞台に拍手喝采を贈るのですが、この拍手喝采は何に対して贈られたのかなー、とぼんやり。

実在の人物や事象を扱うリミニ・プロトコルは、毎回最後の場面で「ちょっと待てよ」となる。拍手喝采は実社会で贈ってこそな気がするけど、「劇場で、演出家がいて。」という前提がなければ、私たちはそれらをこうやってじっくり見ることができないのかしら。

皮肉ではあるけれど、だからこの作品に意味があるのだろうな。

(編)

 

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