東京デスロック『Peace ( at any cost? )』を見てきました。
「現存する最古の平和物語、紀元前425年に書かれたギリシャ喜劇『アカルナイの人々』をモチーフに作られた現代版平和の家。
1945年8月から70年、2011年3月から5年、舞台と客席の区分けなくテキスト-俳優-観客により立ち上がる現代の平和像。」
テキストは
日本国憲法前文から始まり、
第一回広島平和宣言(浜井信三 1947年8月6日)
平和(谷川俊太郎)
国民の皆様へのメッセージ(菅直人 2011年3月13日)
原子力委員会発足に際して(正力松太郎 1956年1月13日)
砂の塔(与謝野晶子)
etc……
と、時代時代の演説、詩、被災児童の作文、SNSなどの言葉
が朗読される形。
特に、冒頭の流れで聞いた「砂の塔」!
————-
「砂を掴んで、日もすがら
砂の塔をば建てる人
惜しくはないか、其時が、
さては無益な其労が。
しかも両手で掴めども、
指のひまから砂が洩る、
する、する、すると砂が洩る、
軽く、悲しく、砂が洩る。
寄せて、抑へて、積み上げて、
抱へた手をば放す時、
砂から出来た砂の塔
直ぐに崩れて砂になる。」
砂の塔をば建てる人
これに答へて呟くは、
「時が惜しくて砂を積む、
命が惜しくて砂を積む。」
—————-
なんか、言葉の威力がすごかった…詩は時間を超えますね。

演説がその時代の人々の心を掴み、鼓舞するものだとして、
紹介されるテキストに強く現れる平和への切実な願い、立場が異なるゆえに錯綜する強い願いが、なんとも…(そして鼓舞しようとするがゆえに、煽るような内容になっているのを冷静に聞いてしまう自分がいる)
そして、さまざまな時代の中で発せられた言葉が新たな文脈の中に置かれることで、当時と異なるであろう意味合いを帯びてくる様に、素晴らしい発見がありました。
(ところが2011年以降の日本政府の言葉に関しては、新たな文脈で聞いても、ただ空虚さばかりが耳について、それも辛い…)
さらに、マララ・ユスフザイによるノーベル賞受賞スピーチが終わった瞬間、(いつか本作が再演されたときのために詳細は伏せるけど)自分の足元に世界がドワーーーーーーッと現れまして、
あの瞬間は、本当に震えました…。
公演前に東京都現代美術館の『キセイノセイキ』で見た、横田徹さんの『WAR』とも接続した瞬間で、その中で聞いたシリア国内で活動する救命士AKの証言は、たまらなかったなあ。
パリの同時テロのときに目にした「テロリストへの手紙」とかさ。
私のお尻の下にあった、津波のあとの瓦礫を前に泣き崩れるおばあちゃんの写真とかさ。
世界の無数の苦しみの上に居座り続けることの苦行たるや…
だから、またそれらを覆い隠していく作業に違和感を覚えつつも、あえてそれに加担する・しない(しない場合は直に苦しみの上に居座り続けないといけない)を選ばせる演出も容赦ないなーと思ったし
まあ、本当に世界の見え方が変わる(情報が情報でなくなってしまった)観劇体験でありました。
「言葉を目の前の人間が発する」ということの威力も、改めて思い知りました。
言葉がこうやって時間を超えていくのなら、やっぱり、私は真摯な言葉を残したい。
(世の中に対して、ということではなく、自分に対して、です。)
少なくとも、なんの願いもない虚しい言葉だけは、使いたくないなあ。
(編)
 

 

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