シアターキノで『湯を沸かすほどの熱い愛』を見てきました。

いじめられている安澄が「制服を返してください」と言うときに、双葉から送られた勝負下着をつけていたのが良かったなあ〜。
女性にとって下着は男性のためにあるのではなく、あくまでも自分のためにあるものだ、と改めて。恋愛よりも重要な「勝負」の方が、むしろ多いですしね。
話変わり
ちょうど『無葬社会』を読んだ直後だったので、「死」に対する向き合い方をつい興味深く観察してしまったのですが
オダギリジョー演じる夫は、「生きている」「死んだ」という100と0には強いけれど、死にゆく途中にはめっぽう弱いというか、
やっぱり、生から死へと変化していく、その「変化」に向き合う強さがほしいんだよなー。双葉の元に最後まで通った安澄のようにさ。
そう考えると、いじめのことといい母の死に対してといい、この映画の中で一番強くなったのは本当に安澄だなあ。
「死ぬまでにするべきことがある」と言ったって、本当なら「生きたいよ」「死にたくない」と吐露する双葉を見て、丸く収まる死なんてないのだ、と痛ましかったです。
そして、葬儀はやっぱり、残された者のためにあるのだなあ。
と考えると
故人ではなく自分たちのライフスタイルに即した葬儀に変わりつつある(簡略化も含め)のも、納得。
肉親も含めた他人の存在と自分のライフスタイルや価値観を天秤にかけたときに、あくまでも自分サイドに軍配が上がるところが現代なのだ、とも言える。(でも、それは別に悪いことではないと思う)
じゃあ逆に、自分の価値観よりも他人の存在が大事なことに思えるときって、どんなときなんだろう?
なんてことを思ったあたりで、キリがなくなりそうなので終わり。
(編)

 

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