帰りの飛行機の中で見たケン・ローチ『わたしは、ダニエル・ブレイク』

1カ月間演劇祭や芸術祭を見てきて、その最後にこの映画を見たことは、凄く凄く良かったです。

フェスティバルで多くの作品と出会いながらも、例えば、物乞いをしているロマの人を無視して会場に向かう時など、何か自分の中に矛盾のようなものを感じていました。

この世界を良くしようと、良く生きようと、そのために芸術作品を必要としているのに、目の前の人を無視する自分は何なのだろう。

(じゃあ寄付すればいいじゃんと思うのだけど、「気持ちはわかるけど、素通りした方がいいよ」と言う現地の人もいれば、高校生が寄付しているのも目にしたので、違う文化圏の自分は素通りすることにしようと、その時思った。)

私は何から目を背けて、何に目を向けようとしているのかなあ、ということは考えざるを得なかったし

作品を見ることができている自分はどんな立ち位置にいるのかなあ、ということも結構意識しました。

そんな感じでモヤモヤしている時に、静かだけど強烈な怒りを感じさせたのが『わたしは、ダニエル・ブレイク』で、これにはものすごく揺さぶられました。(多分、この1カ月間で最も動揺した時間だった。)

自分は、芸術祭の世界と、ダニエル・ブレイクの世界の、狭間にいるんだなあ。

ダニエル・ブレイクの世界に立って制作しているアーティストの作品から、それまで知らなかったことを知ったり、考えたり、

あるいは物事の新しい捉え方を発見したりすることは素晴らしく得難い体験だし、

何よりも、いろいろな国の人たちの表現に触れることができるフェスティバルには、これからもどんどん行きたい。

でも、芸術祭の世界を「見て」、(たとえ何かを考えたのだとしても)それだけで終わってしまうことには、どうにも矛盾を感じる自分がいる。狭間にいる自分が、片方だけを見ているだけでいいのだろうか。

とはいえ、いきなり善意の行動(活動)を、このタイミングで生活に追加しようとすると、無理が生じるのもわかっているのです。

と考えると、

自分の生活を守りながらダニエル・ブレイクの世界でも継続的に何かをするには、これはもう、自分が寄って立つ文化圏の中で、とにかく人に親切にすることしかないなあ、と。

ものすごい単純で小学生の標語のような結論ですが、人のちょっとした優しさが自分の気持ちを後々になって救うことは、膨大に体験したので。

違う文化圏にはその文化圏なりの大きな背景があるだろうから、それを共有していない自分は素通りします。でも、自分の文化圏では素通りは、しない。

そして、収入源は複数持っておくに限る。多少身体の自由がきかなくなってもできるような仕事、開拓しておかなきゃな。

(編)

 

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