とても読みやすく、かつ発見があって、分厚さの割に3日くらいで一気に読めてしまった小松理虔『新復興論』
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読みやすさの理由というのは、本書が徹底して、「学術書でもなければ、最新のデータや情報を網羅した専門書でもない。小名浜という町に暮らす一人の人間の経験を書き連ねた」ものである。ということに尽きると思う。
第1部 食と復興から、少し長くなるけど、引用します。

第一部の中身は、私が日々の仕事で体験し、現場で見聞きしてきたことである。現場の人間として、それなりの経験を重ねてきた自負もある。しかしその一方で、私の目線はいつも観光客のそれであり続けた。私は食品メーカーの経営者ではないし、生産者本人でもない。「当事者づら」しておきながら、結局はサラリーマンであり、好きな時に「福島の食」を離れることもできた。(略)だから私は、こんなことを知らないのかバカめ、もっと勉強せい、などと誰かを非難することもないし、福島を知るためにはこの本くらいは読んでおけ、などと要求することもない。私は2012年まで、ヒラメとカレイの違いすら分からない、まったくのド素人だったのだ。双葉郡のことだってよく分からなかったし、そもそも地元のいわきのことだって、深く興味を持ったのは震災後だ。

そして、たくさんの発見がある理由は、
まったくのド素人が何かに興味を持ち、自分で動いて体験と思考を重ねる中で、目の前の問題について考えるときの道筋が、歴史、政治、産業、芸術、科学…というように複合的になっていく様を追体験できるから。
そして、このプロセスは何も選ばれた人だけができることではなく、すべての人に開かれている、ということが素晴らしい。もちろん自分にも開かれていて、今その過程にいるんだなあと思えるところも勇気付けられる。こんなワクワクすることが他にあるだろうか。や、ないんじゃないかしら。
同時に、自身がしてしまった失敗や、「被害者でもあり加害者でもあったこと」を素直に言っちゃうところも、書き手として誠実。(だし、震災から7年という時間が経ったことの意味も感じる。)
もう一つ、自分が勇気付けられたのは、「観光客でいること」です。
「観光客でいること」の無責任さというか、不真面目さ。でもそうであるからこそ生まれる想像力。それはイコール「外部」でいることであり、「外部」の存在が、「今ここ、現実のリアリティ」にがんじがらめになってしまった状況を打破する大事な要因だと。
「外部」というのは何も今生きている人たちだけのことではなく、過去に生きた人たち(死者)、そして、これから生まれる人たち(未来の人たち)のことも含まれます。
小松さんは地域アートについて、「私が求めている地域アートとは、時間的・空間的な外部の視座を私たちに挿入してくれるものである」と言います。「私たち現場に生きる人間が、数百年後の未来を考える思想をつかむための、その端緒となるような体験を、マレビトたる彼らに提示してもらいたいと思っている」と。
長い時間軸で考えるための思想ということでいうと、自分にとっては芸術文化はもちろんなのだけど、やっぱり自然との接点もすごく重要だな。地質とか考えたら、ものすごいですよね。
あと、「あ、この書き方だ!」と思ったのは、2016年にいわき市で開催されたカオス*ラウンジの「市街劇『小名浜竜宮』」で展示された作品を紹介するときの
美術的評価ではなく、その作品が地域とどのように接続され、私たちが何を受け取ったか。」という一文。
ここを読むときに思い出していたのは、札幌劇場祭の市民審査員による審査のことです。
※参考サイト:「札幌劇場祭TGR」について考える | 議論は今後の成長につながるか(d-SAP)
TGRでの審査を巡って議論が起こったのは、それが「演劇的評価」なのか、「私たちが何を受け取ったのか。」ということなのかが、曖昧だったからではないのかなあ。
※上記の「その作品が地域とどのように接続され」の部分は、人によっていろんなバリエーションが成立すると思います。自分の場合は、直近の自分を取り巻く環境であったり、その時々の興味関心によっていろんな社会のトピックになったりするのだけど。
年齢も立場もさまざまな市民が、「自分が受け取ったもの」の大きさで作品を選び、それを共有し、結果、より多くの人たちに多くのことを届けた作品が選ばれ、翌年の札幌演劇シーズンで再演される、というシステムは、理にかなっているように思えるんだけどな。
どんな立場の人であれ、その人がその作品から何を受け取ったのかを書いたものに対して、「素人の稚拙な感想」という反応が作り手から出てくるものだろうか…。
(これは別に素人の感想をありがたがれと言うことではなく、一度作品を世に出した時点で、それがどう受け取られるかはコントロールできない、ってことに覚悟のない作り手、に思えてしまって残念な印象しか受けない。)
仮に出てくるのだとしたら、それはやっぱりそれが「演劇的評価」なのか、「私たちが何を受け取ったのか。」かが、曖昧なせいではないのかしら…。
あと、その行き違いが起こる最大の理由は、TGRの公式サイトにある「今、一番おもしろい舞台を決める、それがTGR」という説明の雑さ(失礼な言い方ですみません)に起因している気がする。
「札幌劇場祭では最も優れた作品に「札幌劇場祭大賞」を授与し、」という説明からは、何を持って優れた作品とするのか、そしてなぜ市民が審査するのか、という部分が抜けているため、受け取る側の誤解を招きやすいのではないかと。

雑な文章も分断の原因になるのでは…ということを、迷いや葛藤、思考の行ったり来たりが誠実に書かれた『新復興論』を読んで思ったことでありました。
※ちなみに自分も2012〜2014年に審査員を務め、「演劇的評価」と「私たちが何を受け取ったのか。」の間に迷い、考えながら、日々の観劇ブログを書いていました。本当にちょっとした感想って感じで、観劇ブログと言っていいのか…という印象も受けますが。分断の元になっていないことを祈る。
2012の観劇ブログ講評、2013の観劇ブログ講評(←札幌劇場祭の賞について主に書いています)、2014の観劇ブログ講評(←専門家ではなく一般市民が演劇的評価を行うことの可能性について考えてた。)
話戻り。
カオス*ラウンジの市街劇は昨年見に行けて、とても良い体験だったなあと思い出しつつ、今年は本書に出てきたうみラボにも参加してみたいなあ。それと合わせて、常磐ツアーからのロッコクツアーも体験したい。
と、思ってたら、ご本人が「「いわき裏ツアー」は、いわきの観光地はほとんど行かないけど、いわきの近代史に触れつつ、首都とバックヤードの関係を、震災・原発事故と結びつけて考えるコースになっている。まじでいわきでしか成立し得ない。今期はこのツアーを、ちゃんと定期的に開催します。」とツイートしてて、楽しみ。逃さないようにしなければ。
ということで、『新復興論』、とてもおすすめです。ゲンロンの特設サイトで試し読みなどもできるので、ぜひチェックしてみてください。
(編)
 

 

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