2009年に鈴木喜三夫さんを中心に旗揚げされた座・れら

第7回公演『不知火の燃ゆ』。

舞台は水俣。不知火の火影が浮かぶ八代海に生きる家族の、1956(昭和31)年夏の終わりの物語です。

念のため、かいつまんで背景を書きますと

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1956年は、4月に漁村に住む5歳の少女が病院に運び込まれたことをきっかけに、水俣病が公式確認された年です。

5月には、地元の新聞に「水俣に子どもの奇病 ―同じ原因か ネコにも発生」という見出しで記事が掲載。

(水俣病が広く知られることになった結果、多くの人がいわれのない差別で苦しんだことは、本作品でも触れられています。)

原因は、日本窒素肥料株式会社(現:チッソ株式会社)が建てた工場から排出される工場廃水に含まれるメチル水銀でしたが、

当時、水俣市はチッソの企業城下町、工場のおかげで発展した町でした。

なので、

「詳しい因果関係はわからないものの、状況から見てチッソ工場の廃水による魚介類の汚染が奇病の原因」と、57年の時点ですでに考えられていたにも関わらず、産業発展を優先した県も国もこれを認めず。

このあとも、汚染拡大は続き、さらには(チッソや化学業界を守りたい人たちから)有機水銀説に対する反論まで相次ぎ、「チッソの廃水が原因」と政府見解が確定するのは何と1968年!

公式確認から12年後!

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さて。

こういう背景がありながらも、『不知火の燃ゆ』は決して「何か一つの主張」に観客を導きません。

前の投稿で「社会テーマを描くだけでは、一人一人の人間を見落としてしまう」という言葉を紹介しましたが、

本作も、描かれていたのは水俣病の悲劇(あるいはそこから連想される福島のこと)ではなく、その現実の中で生きざるを得なかった人たち、その事実の重さ、ではなかったかと思うのです。

ちなみに「代弁する」って、不可能なことだと個人的には思っております。例え当事者であろうと、何かを語るときは、それはあくまで自分の考えでしかない。

本当は自分の考えなのに、それをあたかも「誰かの声」であるかのように語ることは、実に巧妙でずるいことだなあと思うわけですが、

『不知火の燃ゆ』のつくり手はその危険をよく自覚しており、

結果、とても慎しみ深く抑制された、しかし「今これをつくらなければならない」という切実さにあふれた、素晴らしい作品となっていました。

過去の記憶を葬るのではなく、ただ掘り起こすのでもなく、今を生きる人たちに「重み」として引き渡すことが大事なのだとして、本作品はこれからもぜひ再演を重ねてほしい。

今回見逃した方も、もし次に再演することがあったら、ぜひ足を運んでほしいなあ。

私たちは、この「重み」を一度引き受けないと、これからどんな答えも出せないのではないかしら。

※余談ですが、初演時の加藤浩嗣さんの劇評が、何ともアツいです。合わせてご覧ください。

(編)

 

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