日曜日はもう一つ、演劇集団遊罠坊 ロジカル公演『-MODELROOM-』も見てまいりました。

気遺いに満ちた「優しい人間関係」の中で空気を読むことを先鋭化すると、最後のああいう会話に行きつくのかなーとぼんやり思いつつ。

彼らにとって「幸せ」や「安心」が、いかにハリボテのように感じられているか、が、感じられなくもない…

のですが、

舞台上の要素(身体、声、その他空間を構成するもの)が若干単調だった気が。

何と言うか、これまた「型にはまっている」感じがどうにもしてしまうと言うか…(全然そんなことなかったらすみません)

初見なので何とも言えませんが、自分たちの表現したい世界を舞台上につくるにあたり、この設定は必要か?ってところから、無駄なものをどんどん削ぎ落としていく作業がもう少しあってもよいのでは。

(以下、12/3追記)

昨日、代表の浅葱さんとお話する機会がございまして。

彼らのブログに「全員が全員、自分の理想や、理論があるのです。それがどんなものかは他人からは絶対に理解されない物でしょう。ですが、それを受け入れる前に拒絶することだけはしてほしくない物です。」と書いてあり、

昨日話す中では、「自分の殻に閉じこもってしまう人間もいる」みたいな言葉も出てきて。

なるほど、そういうことを伝えたかったのか、と。

ただし。

作品に対して「わかりづらい」と言われるときに、相手にその考えがきちんと伝わっていて、その上でその考えに対して「わかりづらい(理解できない)」と言われているのか、

あるいはその考えがきちんと伝わっていなくて、一体何を伝えようとしているのかが「わかりづらい」と言われているのか、見極めないといけないかと。

前者なら、上記のようなコンセプトに対して対話の土壌をつくることに成功したわけで。

後者なら、テクニック的な問題なので、表現手法を向上させる必要があり。

さらに、「じゃあ自分たちの考えを伝えるために、説明的にすればいいのか」と言われると、決してそうではない。それならわざわざ舞台作品にせず、文字を読んでもらうだけでいいのではないでしょうか。

※説明的、というのは主に台詞で語ってしまうことを想定しています。

そうですね…こういう主旨の作品でわりと見かけるのは、「対話になっていない会話」とか、「何か一つのことを延々と続ける、それぞれの身体」とか、「言葉と動きが合っていない身体」とか、かなあ。

ご本人にも伝えましたけど、演劇以外でも「殻に閉じこもっている」と感じさせる作家の作品に触れて、「この作品の何が、自分にそのように感じさせるのだろうか?」と考えてみることで、

自分たちの伝えたいことを伝えるための、突破口が見つかるかもしれません。

頑張ってね、浅葱さん!

(編)

 

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