2019年3月22日、23日と、かでる2.7ホールで「札幌里帰り公演」と銘打ち『はなれ瞽女おりん』を上演した、札幌出身の人形劇アーティスト、平常(たいらじょう)さん。

地元有志による「たいらじょう人形劇 札幌公演実行委員会」が、費用調達のためにクラウドファンディングも用いながら、平さんと共に2年かけて準備を進めてきた公演です。

平さんは2001年に活動拠点を東京に移した後、新国立劇場をはじめ全国での巡回公演、ドイツやアメリカ等での海外公演、2011年にはパレスチナで日本人初の公式巡回公演を行うなど精力的に活動し、国内外から高い評価を受けてきました。

13年ぶりの札幌公演では、艶やかな盲目のおりんと脱走兵の平太郎の愛を唯一無二の表現手法で描出。この日を待ちわびた多くのお客さんに、深い感動と余韻を残したのでした。

画像提供:たいらじょう人形劇 札幌公演実行委員会

画像提供:たいらじょう人形劇 札幌公演実行委員会

終演後、熱気冷めやらぬ雰囲気の中行われたトークで、「芸術を信じる力を札幌で身につけた」と語った平さん。

本公演で彼を初めて知った人たちにとって、この言葉は新鮮に響いたのではないでしょうか。そう、人形劇アーティスト・平常の創造性を育む土台となったのは、「札幌市こども人形劇場こぐま座」と「札幌市こどもの劇場やまびこ座」を中心とする、札幌の人形劇文化だったのです。

インタビューでは、平さんの素晴らしい作品を札幌で見る機会が近い将来に再び訪れることを願って、平さんの札幌時代の歩みを中心に今後の活動についても伺いました。

「人形劇をやるために生まれてきた」平さんの背景が伝わると同時に、札幌の街を誇りに思える、そんな内容だと思います。どうぞじっくり読んでみてください!

※インタビュー日:2019年3月24日


 

人形劇、お神楽、映画での子役デビュー。人形劇と演じることに邁進した小学校時代。

 

―平さんが人形劇を始めたきっかけを教えてください。

 

両親によると、私は赤ちゃんの頃から持っているものを何かに見立てて遊んでは、ものを通して気持ちを訴えるということをしていたらしいです。だから、きっかけというのはなくて、私は人形劇をやるために生まれてきたんだなって思います。私があまりに人形劇が好きなものだから、家には両親による手作りの舞台がありました。両端の紐を引っ張ると幕がスーッと開く本当に素晴らしい舞台で、試行錯誤しながら一生懸命作っている両親の姿が目に焼き付いています。

嬉しくて毎日その舞台で人形劇をしているうちに、だんだんレパートリーができてきたので、自分でチケットとポスターを作って、クラスのみんなに見に来てもらっていました。自分にとっては人形劇が遊びの延長であると同時に、自己表現やコミュニケーションの手段だったんですね。昔から私は背が小さくて、同じ学年の子どもたちの遊びにはついていけないところがあったのだけど、人形劇をしている時は年齢などの垣根を越えてみんなとつながれることが嬉しかった。人形劇がつくり出すコミュニケーションの力やふれあいの力によって、自信を育むことができたのだと思います。

 

―やまびこ座で開催している小学生を対象にした劇遊びサークル「遊劇舎」の第1期生です。

 

その前から両親には「この子の表現したい欲求を満たさなきゃ」という思いがあり、私のために人形劇団を随分探してくれたそうです。でもなかなか見つからなくて、代わりに3年生からお神楽を習い始めていました。毎年の大事な芸事としてお神楽のレッスンを続けつつ、4年生の時には映画のオーディションを受けて子役デビューもしました。そうして6年生になった1993年に、遊劇舎がスタートして。私にはすでに人形劇のレパートリーがあったので、遊劇舎の発表会とは別に、子ども人形劇サークルが一堂に集まるこぐま座のイベントに遊劇舎代表として出演することになったんです。当時の館長だった加藤ひろしさんが人形の直しを手伝ってくれたり、アドバイスをいろいろしてくださって、『どんぐりと山猫』を上演しました。これが公の劇場での初舞台でした。

 

―6年生の時は、お神楽や映画の撮影、遊劇舎と大忙しですね。

 

恩師の小川昭子先生は、私が小学6年生の時の担任でした。小川先生と出会う以前は、いつも人形を持ち歩いて喋っている異端児として扱われることが多く、何人もの先生を悩ませていたように思います。子ども心に、学校で頭を下げる母親の様子をすごく覚えています。でも私の母親は人を肯定することにかけて天才で、「あなたはちょっと先を行き過ぎていて、先生にはあなたを理解するのが難しいのよ」って(笑)。

周囲の大人が、一見短所に思われがちな子どもの特性を長所として捉えて育むことができるかどうかが、その子どもにとって運命の分かれ道ですよね。私は授業中もずっと人形劇のことばかり考えて先生の話を全く聞かなかったので、テストでもまともな点数を取れたことはありませんでした。でも小川先生はそれに対して怒ることもなく、代わりに下級生に人形劇を見せる時間をセッティングしてくれたんです。クラスのみんなが自習をしている時間に私だけクラスを抜け出して、1、2年生に人形劇を見せてあげる。そうすると子どもたちの盛り上がりがものすごくて、溢れる笑い声や歓声の中、次のセリフをどのタイミングで言えばいいのか悩むほどでした。どんな風にセリフのアプローチをすれば注目を集めて、また笑いが起こるのかなっていうことを、6年生ながらに考えて何度も体験させてもらえたことはありがたかったです。小川先生は私にものすごい影響を与えてくれた先生で、卒業後も今に至るまで度々公演を見に来てくださっています。

 

人形劇フェスティバルと人形浄瑠璃講習会で、あらゆることを学んだ中学高校時代。

 

―中学時代の活動について教えてください。

 

中学に入ると、「つねっこ」という人形劇団を一人で立ち上げて活動を始めました。その名前にした理由は、歴史ある札幌のアマチュア劇団で加藤館長が座長だった「ひよっこ」さんと、当時北海道で唯一のプロ人形劇団だった「えりっこ」さんへの憧れです。最初に札幌人形劇祭で上演した『ねずみの嫁入り』は、札幌市長奨励賞を戴きました。

当時札幌では、例大祭の時にこぐま座で例大祭特別公演、夏はおとぎの国人形劇カーニバル、秋には札幌人形劇祭など、人形劇フェスティバルが数カ月に1回のペースで開催されていました。そのため、短いレパートリーでも人に見てもらって磨いていけるチャンスがたくさんあったんです。やまびこ座の上演システムもすごかったですね。一割幕は閉じてあって、その幕の前で小規模な人形劇や紙芝居などを上演し、幕の後ろで次の作品の仕込みをするので、作品と作品の間にインターバルがない。演目ごとの入れ替え制だと次の公演が始まるまで1時間くらいインターバルがあったりしますが、札幌の場合は1日劇場に行くだけで7〜8作品見ることができる。自分も作品を作って、人の劇団の作品も見てという日々で、家にいるよりもやまびこ座やこぐま座にいる時間の方が長かったんじゃないかと思います。

 

―やまびこ座やこぐま座のその上演システムは普通に見ておりましたが、札幌独自の工夫だったのですね。

 

あのシステムは札幌すごいですよ。あと自分にとって大きかったなと思うのは、今も続いている「人形劇フェスティバルさっぽろ冬の祭典」です。札幌の人形劇人が集まって、舞台監督や演出家、照明さんなど何人かのプロと一緒に大規模な作品を作るもので、いろんなことをここで学んで自分たちの創作にフィードバックすることができました。冬の祭典では高校時代に舞台監督助手などもして、スタッフの勉強もさせてもらいました。また、札幌時代に脇役をたくさんしたことも、私の宝になっています。脇役は待ち時間がある分、人の演技を見ながら自分だったらどう演じるかを考えることができる。そうやっていろんな役に対して演技のシミュレーションをしていたことが、全ての役を自分一人で演じる現在のスタイルにかなり生かされています。

 

―遊劇舎の同期生と劇団「ラクダノセナカ」を立ち上げたのは、中学生の時ですか?

 

中学3年生の時ですね。ちょうど演出の仕方を勉強し始めた頃で、ラクダノセナカで札幌人形劇祭に出品した作品は、優秀賞を戴きました。審査員の一人で大阪の人形劇団クラルテの方が「常君が他の子たちの個性を引き出している」と言ってくださって、嬉しくなったのを覚えています。演出について勉強しながら、その人それぞれの個性をいかに引き出すか、その人のできる能力をいかに引き出すかを研究していたので。

それまで人形劇祭では「演出:〜劇団」というように、劇団員全員で演出するというスタイルが多かったんです。そうではない、演出として一人が責任をもって全体を考えることの重要性を札幌の人形劇界に提示してくれたのが、演出家の鈴木喜三夫さんだと私は思っています。彼が初演を演出した『セロ弾きのゴーシュ』は、冬の祭典のレガシーとして今でも一番数多く再演されている作品です。私にとっても、ラクダノセナカでの演出体験がとても役に立っていますし、「引き出す」という意識が自身の活動の幹にもつながっています。人形劇の世界では「人形に命を吹き込む」という言葉がよく用いられますが、私はそうではなく「人形の命を引き出す」という意識で操っているんです。人形がどう動きたいのかを考え、人形の命を引き出すために自分の身体を捧げる気持ちで使う。そうすることで人形にオーラが出るんです。

 

―札幌時代の経験が、ご自身の活動の土台になっていることが伝わってきます。

 

あと、自分が本格的に人形劇を突き詰めていくのに一番大事だったと思うのは、高校生の時に受講した人形浄瑠璃講習会です。それまで我流だった胴串(どぐし)の握り方を西川古柳師匠(八王子車人形西川古柳座 五代目家元)にきちんと直してもらい、伝統芸能の基礎を学ぶことができたのは大きかった。西川古柳師匠は、人形の操演に関してまさに私の師匠です。2010年のシアター・ジョウのこけら落しでは、師匠に三番叟を上演していただきました。

 

―人形浄瑠璃講習会のユースクラスですね。

 

当初は人形浄瑠璃講習会に18歳以上対象のクラスしかなかったのですが、私が高校2年生のときにどうしても受講がしたい…と懇願し、その年から15歳以上対象となり受講が叶いました。私は自分がやりたかったので、受け入れ態勢がなくてもこぐま座ややまびこ座に行って活動していましたけど、当時は小学生で人形劇に出会った子たちが中学高校に進んでもそのまま続けられるかと言うと、受け入れ体制がまだなかったんですよね。今、やまびこ座とこぐま座で、中高生の劇団の人たちを支えるシステムができているのは、本当に素晴らしいことだと思います。子どもから大人まで、幅広く育成に力を入れている地域は全国的・世界的に見ても極めて珍しいと思います。

 

「自分の命が尽き果てた後も人の役に立てる方法はないか、模索したい」。

 

―アフタートークで平さんがおっしゃっていた、「芸術を信じる力を札幌で身につけた」という言葉が印象的でした。今年は節目の年というお話も出ていましたが、今後のことについて教えてください。

 

自分にとって大事な空間である「シアター・ジョウ」を閉館することは、次のステップに向かっていくために必要な決断でした。私はあと2年で40歳になりますが、40代を目前にして一つでも多く作品をつくりたいという思いが今すごく高まっています。そして、自分の命が尽き果てた後も人の役に立てる方法はないか、模索していきたい。

パフォーマンスは、お客さんの記憶にしか残すことができません。映像記録は生で体験する舞台とはやはり違います。私は「間」を大事にしているのですが、観客全員が声を立ててはいけないという緊張感の中、感情の密度が深まり、やがて沈黙がやぶられ次の台詞が響く…。あの「間」の密度があるからこそ、セリフが心にすっと入っていく。その「間」が長ければ長いほど、映像では単なる「無音」になってしまったり、放送事故のように捉えられてしまいます。劇場でなければ体験できない「間」があるのです。私はあの「間」の密度が好きです。映像作品をつくるなら、映像に合わせた演技でいつか挑戦してみたいとは思っています。物語もたくさん書いていきたいですし、人形劇という芸術文化の普及や大人向けの人形劇を広めていくことに、もっと力を入れていきたい。

こうやって故郷で平成最後の公演ができて、新元号で迎える最初の仕事がシアター・ジョウのファイナル公演だなんて、節目を感じずにはいられないというか…ものすごくいろんなヒントが今年に隠されているんじゃないかと思って、その一つ一つをどう大事に受け止めていけるか、考えているところです。


 

【PROFILE】

平常 たいらじょう

人形劇俳優・演出家

ひとり芝居と人形劇を融合させた独自の表現方法を確立。脚本・演出・音楽・美術も手がける。「毛皮のマリー」(寺山修司原作)で日本人形劇大賞銀賞を最年少で受賞。オリジナル作品が厚生労働省より表彰されるなど受賞多数。2011年には外務省の主催により、日本人アーティストとして初めてパレスチナを巡回公演。現地の観客を熱狂させた。東京文化会館・KAAT神奈川芸術劇場など、劇場からの依頼によって企画された舞台作品の演出・出演も多数行う。新国立劇場中劇場では「オズの魔法使い」を定期的に上演するなど、多彩なレパートリーを全国・世界各地で上演中。

 

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