社会と劇場(演劇)の合わせ鏡具合とその分析に唸りまくりだった『戦争・詩的想像力・倫理 -アイルランド内戦、核戦争、北アイルランド紛争、イラク戦争』、読了。

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20世紀以降の世界各地でおこるテロ、民族紛争、内戦。この混迷の時代に芸術、文学はいかに対峙するのか。『オイディープス王』、『勝負の終わり』、『しあわせな日々』、『アルカイダへの旅』ほかギリシア劇にインスパイアされた作品を解読し、〈癒し〉〈倫理〉の視点からも考察する。

という一冊。

いかんせんまとめきれない内容であれですが、最後にギリシア劇を扱った作品で自分の足元が揺らぐほどの演劇体験があったものも、2つ紹介してます。

なぜギリシア劇が現代においても上演され続けるのか、って辺りに納得。

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伊達直之さんによる「1920年代建国期のアベイ劇場 ――ロビンソン、オケイシー、イェイツと戦争の記憶」では、

アイルランドの英国からの独立戦争と、その後の内戦と建国の歴史に触れた上で、ダブリンのアベイ劇場がアイルランド社会と並走しながら、それらの時代を舞台としたさまざまな作品を上演したこと、また各作品に対する観客の反応がどのような背景のもと起こったかを考察。

自分メモとしていくつか抜粋していくと

同時代の出来事や少し前の過去の出来事を、リアリズムの手法によって舞台上に再現してみせた作品で起こった反応に対する以下の

「ドラマが固有の歴史的事実に依拠している場合、遺族にとってその対決は抜き差しならないものになる。民衆全体の社会改革の正義という大義によっても、またリアリズムが要請する強靭な観察力によっても、結果的には、傷害や犠牲と痛みを抱えた民衆感情が頼る情緒的な癒しの場を、容赦のない視線で批判することになりかねない」

「それを受容する側には、危機感を受けとめ変化に身を投じる準備ができている者たちもいれば、変化を怖れ拒絶すること以外身を守る術を持たない人びともいる」

という部分や

時を同じくして、ギリシア悲劇の形をとりながら時事的なリアリティを反映させた作品が広く大好評を博した時の

「ギリシア古典劇という時間を超えて普遍的な人間ドラマの装い」

によって

「伝える意味は現代に通じさせながらも、リアリズムの手法によりアイルランドのむき出しの現実のただ中に観客を立たせたオケイシーやロビンソンのような、過激な挑発性がなかったため」

「観客は芸術作品として作品性を意識することでいったん距離を確保しつつ、純粋にドラマの感情の真相へ近づくことができた」

という考察に唸る。そして

「自由国政権やリパブリカン、そしてカトリックの道徳が煽る時事的で表層的な政治・宗教の対立に捕らわれず、人間の本性近い深い情緒レベルでアイルランドの観客と交感したいという、イェイツの意図と意志とが見える」

というあたりから、ギリシアの古典劇がなぜ現代に至るまで何度も上演されてきたのか、非常にストンと腑に落ちた次第。

そしてこの章の最後は

戦後のダブリンには(略)劇場に足を運び舞台に触れることすら望めない傷痍軍人や遺族たちが多くいた。アベイ劇場の舞台は、彼らに治療や癒しを提供することはなかったが、自由国という新しい国家が作られていく過程で、ダブリンの観衆を通じて国民がそうした戦争の傷をどう認識し対処できるかを、共通の気付きとして共有すべく問いかける道を選び、実践したのだと言えよう。

アベイ劇場…!!!社会における劇場(演劇)の意味をビシバシ感じる伊達さんの考察…震える。

 

佐藤亨さんによる「北アイルランド紛争とギリシア悲劇 ――シェイマス・ヒーニー『トロイの癒し――ソポクレス「ピロクテテス」一変奏』をめぐって」では、

1960年代後半からほぼ30年にわたって続いた北アイルランド紛争の経緯に詳しく触れながら、ギリシア神話とソポクレスの『ピロクテテス』、またそれを原作にしたシェイマス・ヒーニー『トロイの癒し –ソポクレス「ピロクテテス」一変奏』について解説。

『ピロクテテス』に出てくるオデュッセウスとネオプトレモスの対立が「賢さ(狡知)と正しさ(廉直)との対立でもある」って、ハッとしたなー。

そしてヒーニーの作品でコロスのスピーチにあった「hope and history rhyme」(本文では、原文に忠実に訳すと「希望と歴史が押韻する」として、「希望と歴史が一致する」と紹介)という一節。すごい。

 

最後の外岡尚美さんによる「痛みの唯物性(マテリアリテイ)について――イラク戦争とアメリカ演劇の〈倫理〉を問う」では、イラク戦争を描いた50を超える演劇作品で目につくのが「ある種の自己完結性」と指摘。

その時期に増加したドキュメンタリー演劇についても、「現実構成のあり方を検証したり、わかったつもりになっていたイラクやテロリストについて〈知ろうとする〉。現実やイラクを見る〈別な見方〉を提起しようとする試みであるとしながら、必ずしも自己の認識枠を刷新するわけではない」とし、これを「表象の限界」だと。

そこで倫理を可能とするのが「痛みを問題=ものとして前景化し、他者を顕在化させる唯物性」と書かれているのですが、この「唯物性」というのがちょっと自分には捉えづらい言葉で、もう少し読み込みが必要だなーと思いつつ。

後半に向けて「表象のなかに唯物性の次元が介入し、認識枠の変容を可能とするような経験を作り上げている作品」について、それがどのように可能になっているのか解説されていくのですが、

一つ「あーなるほど」と思ったのは、対象が語りかけてくることで、観客の「傍観者としての立ち位置」を暴く形のものが、それであるということ。

俳優は決して「その本人」ではなく、あくまで代理であるけれど、「その代理的身体を通して、実際に起こったとされる体験が問題=ものとして実在化(マテリアライズ)する」=「対象の経験が唯物的(マテリアル)に語りかけてくる」ってことなのだそうです。

そうやって「人と同じ立場に身を置いてみる」という体験を可能にするのが演劇で、「その終わりのない実践が演劇の倫理なのである」と。

ちなみに

傍観者としての立ち位置について自分がぼんやり意識したのは、東日本大震災が起こった時、それを直接的に扱った演劇作品を見るかどうか躊躇したことが、そうだったのかもしれないです。その時は「見ない」ことを選択したし、見ていないからその作品がどういうものだったのかはわからないのだけど、やっぱり相当信頼の置けるつくり手でない限りは見れない…と思ってしまう。

 

ちなみに堀真理子さんによる「黙示録的時代(アポカリプテイツクタイムズ)を見据えて ――第二次世界大戦後のサミュエル・ベケット」

に関する内容がすっぽり抜けてますが、ベケットが自分的に全然観劇体験なさすぎて、ちょっとうまく読み込めなかったせいです。すみません。ベケットがもう少し身近になったら再トライしたい。

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「痛みを問題=ものとして前景化し、他者を顕在化させる唯物性」というところと、ギリシア劇を扱った作品で自分の足元が揺らぐほどの演劇体験があったもの、で思い出すのは

2016年に見た東京デスロック『Peace ( at any cost? )』

2015年に見たプロジェクト・アイランド『アイランド -監獄島』

でしょうか。

あと繰り返しになりますが、この本を読んで良かったなと思うのは「社会における劇場(演劇)の意味」を再確認できたこと。

多くの人は、日々職場や学校という社会にどっぷり浸かり、そこでリアルにいろいろ考えざるを得ないわけですから、劇場(演劇)に癒しを求めるのはそりゃそうだろうと思うし、その態度をわざわざ批評されたくないのも、それはそうだよねと思うのだけど。

だけど、自分が身を置く社会や、その外にある他者の社会について、鋭く切り込まれるからこそ違う思考の道が開くということも、あるわけで。そして、それは、結果として自分を助けてくれるものでも、ある。

から、

やっぱり今後も、そういった演劇に出会っていきたいし、そのためにはどんな遠出も厭わないぞ、と思った次第です。

(編)

 

 

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